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ジャストコラム

「平和」とは

「平和」を辞書で調べました。

「平和」
① 戦争もなく世の中が穏やかである・こと(さま)。
② 争いや心配事もなく穏やかである・こと(さま)。
平和の反意語は「戦争」である。
日本にあてはめてみると
①については他国への自衛隊の支援活動はあるものの、国内での戦争はない、しかしその家族からすれば心が穏やかとはいえない。
②については地震等、天災、人災により日本中いたるところで被災された方がおり、心配事も山積、穏やかとはいえない。

このことから日本は「平和ではない」といえるのではないだろうか?
平和とは国家、団体、集団での表現、感じ方であり、個人そのものの表現、短期間ではなくある程度長い間隔の評価、表現なのだろうか?
自分の考え、主張が他人と異なり言い争いになることはよくある。
人が生きていく上で心配事、争い事は必要であり、それを乗り越えることで発展、成長につながるように思える。誰もが家族や親しい人が苦しみ、亡くなることは耐え難くそれを促し、実行した人、集団に恨み、憎しみを抱き、仕返しをしたいという気持ちが生まれ、行動に移す、それが永遠続いているのが戦争であり、人として生まれた以上は逃れることができないことなのだろうか 戦争をする行為は、ある種本能かもしれない。戦争DNAが刷り込まれているのか
闘争本能なのか 

「戦争」のきっかけは、権力を持ち自分と違う思想、考えを同じ方向に向かせようとする、他国の領土、資源を奪う、平和維持のため等、といろいろである。
平和の反意語は「戦争」であるが同義語のようにも感じる。
私の祖父は戦死している。そのため、73歳になる父は祖父(父)の顔を知らず、祖母は20歳の時から未亡人であった。
慰霊でテニアン島へ行った時のことである。海岸沿いに海から攻め入る敵を迎え撃つコンクリートの建物(トウチカ)があり、暗く、狭く、蒸し暑い、そこはかつて、その狭い窓から機関銃の銃口を敵に向け構え、殺しあった場所である。

祖父はどんな気持ちでそこにいたのだろうか 遠く日本に残した妻子のことを思い、日本国家のためと、死ぬことへの恐れはなかったのだろうか
そこで祖父が滅したと思われる場所に線香をあげ、手を合わせた。その時、父の横顔は涙を流し、今まで見たことのない表情だった。50数年ぶりに父親の魂に触れたのだろう。私は今でもその時のことを思い出すと心臓を掴まれるような何とも言えない気持になる。
己を捨て他の者の為に命を落とす。自分も含め今の若者にこの気持ち、感情はあるだろうか 子供、妻のためなら、まだしも国って・・・
実際そうではないだろうか、あまりにも大きく漠然すぎて洗脳でもされない限り、現代社会で国の為に命を投げ出す人がはたしているだろうか。

私、個人的には日本は平和だと感じています。米国の敗戦国に対する扱いの結果が現実かもしれませんが、先人が国のためと戦い散って逝った悲惨、悲劇の教訓がまだ忘れられていない、「戦争はいけない」の記憶がまだ新しく、人の心の抑止力になっているからだと考えます。
一部の人間の一時の感情、欲を満たすだけで多くのものが犠牲、悲劇にあう世界
どんな大義があろうと人と人が殺しあう世界、戦争はあってはならない、そのような団体、国造りをしてはいけないと思います。
私は毎朝、仏壇に手を合わせ出勤するようにしています。先祖に感謝するとともに「今日も一日何事もなく一日が送れる様お守りください」と唱えています。
一人、一人の幸福の積み重ね、「幸せ」と思わず声に出してしまう様な毎日、毎日が結果「平和」に繋がると思います。

 長野営業所 矢口 浩史